手元供養という言葉をはじめて聞いたとき、
正直に言うと、私は「ないな」と思いました。
遺骨を家に置く。
骨壺をそばに置いて暮らす。
それは、
ずっと別れられなくなる気がしたからです。
悲しみの中に、
自分を留め続けてしまうような感じがして。
この記事の内容
手元供養に感じていた、ひっかかり
私が引っかかっていたのは、こんな気持ちでした。
- いつか手放せなくなりそう
- 前に進めなくなるんじゃないか
- 「そばに置くこと」が供養なのか分からない
供養は、
静かに、距離を保ちながら続いていくものだと思っていたから。
だから
「家に置く」という選択は、
少し近すぎる気がしていました。
→「距離を選んだ人の話はこちら」
それでも、気持ちが揺らいだきっかけ
考えが変わり始めたのは、
手元供養を選んだ人の声を読んだときです。
そこには、こんな言葉がありました。
- 「図らずも、息子の遺骨をそばに置くことになりました」
- 「娘を遠くに行かせたくなかった」
- 「一人にしたくなかった」
理屈じゃなくて、
そうか、そばに置きたいよねと思ってしまった。
「供養の方法」じゃなくて、
別れ方の話なんだと、そこで気づきました。
手元供養は「つなぎ」の選択でもある
手元供養というと、
「ずっと家で供養し続ける」イメージが強いかもしれません。
でも実際には、
- 一定期間そばに置いてから散骨する
- 粉骨して一部だけを残す
- 形を変えて、最終的には自然に還す
そんな途中の選択として選ばれることも多い。
「今はまだ、完全に手放せない」
その正直な気持ちを、そのまま置いておける。
それも、手元供養の役割なのかもしれません。
骨壺じゃない、という選択
もうひとつ、印象が変わったのは
「いかにも骨壺」ではない供養の形を知ったときでした。
ガラスや小さなオブジェのような形で、
遺骨が“しまわれている”というより
想いが納められている感じ。
それなら、
「供養」と「日常」が、無理なく並ぶ気がした。
毎日向き合わなくてもいい。
でも、完全に遠ざけなくてもいい。
距離感を、自分で決められる。
“供養している感じ”を出さないことに救われる人もいるようです。
ガラス製の手元供養それでも、私はまだ決めきれない
正直に言うと、
私は今でも「手元供養が正解だ」とは言えません。
離れられなくなる不安も、
ちゃんとあります。
でも同時に、
「選ばなかったからといって、冷たいわけじゃない」
「選んだからといって、前に進めないわけでもない」
そう思えるようにはなりました。
供養の形は、
人を分類するものじゃない。
その人が、
どう別れて、どう生きていくかの話だから。
まとめ|供養は「正しいか」より「無理がないか」
手元供養は、向き不向きがあります。
- そばにあることで救われる人
- 距離があるほうが、呼吸できる人
どちらも間違いじゃない。
大切なのは、
「こうすべき」ではなく
「これなら自分が壊れずにいられる」という感覚です。
もし今、
手元供養が気になっているなら。
それは弱さではなく、
ちゃんと向き合っている証拠だと思います。
すぐに決めなくてもいい。
形を変えてもいい。
供養は、
一度決めたら動かせないものじゃないのだから。
ホーム » 手元供養は「離れられなくなる」?それでも惹かれてしまう理由
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いっちー
元教諭(15年+)&プロカメラマン。
わが子の発達グレーやきょうだい児の葛藤に、涙でティッシュの山を築きながら向き合っている現役の母です。
教育の現場を知っているからこそ、外側から「正解」を押しつけられることの息苦しさや、もどかしさを感じてきました。
キラキラした正解の中で、無理をして生きるのはしんどいですよね。
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