── 距離を選んだ人の、静かな肯定
どうしても、家に置くことができなかった
手元供養という言葉を知ったとき、
私はすでに「選ばないだろうな」と感じていました。
遺骨を家に置くこと。
毎日の生活の中で、すぐそばにあること。
それが悪いとは思わない。
むしろ、そうした選択に救われる人がいることも、分かっていました。
それでも、
どうしても「家に置く」というイメージだけは、
自分の生活と結びつかなかったのです。
この記事の内容
毎日向き合う自信がなかった
理由のひとつは、
毎日向き合い続ける自信がなかったからです。
朝起きて、
食事をして、
仕事に向かって。
その日常のすぐ横に、
別れそのものが在り続けることを、
私は受け止めきれる気がしませんでした。
忘れたいわけではない。
でも、思い出す覚悟を毎日更新し続けるほど、
自分は強くないと思ったのです。
距離がないと、息ができなかった
もうひとつは、
距離がないと、呼吸ができない感覚でした。
悲しみは、近すぎると形を失います。
重さだけが残って、
どこにも置けなくなる。
少し離れているからこそ、
「思い出す」「手を合わせる」「語る」
その一つひとつが、私には必要でした。
近くに置かないことは、
逃げではなく、
自分を保つための距離だったのだと思います。
区切りがないと、前に進めなかった
そして、もうひとつ。
区切りがないと、前に進めなかった。
納骨をする。
場所を決める。
手を離す。
それは、忘れるためではなく、
「ここから先も生きる」と決めるための動作でした。
区切りがあるから、
振り返ることができる。
区切りがあるから、
歩き出せる。
私にとっては、
供養とは“そばに置くこと”ではなく、
位置を定めることだったのかもしれません。
選ばなかったことに、後悔も罪悪感もない
正直に言うと、
今でもときどき考えることはあります。
あの形を選んでいたら、
違う気持ちになっていたのだろうか、と。
でも、後悔はありません。
罪悪感も、ありません。
あのときの自分が選んだ距離は、
精一杯、壊れないように考えた結果だったからです。
選ばなかったからといって、
想っていないわけではない。
手放したからといって、
冷たかったわけでもない。
それも、ちゃんとした別れ方だった
手元供養を選んだ人の別れ方があるように、
選ばなかった人の別れ方も、ちゃんとあります。
近づく別れ。
離れる別れ。
どちらが正しいかではなく、
どちらなら生きていけるかの違いです。
距離を選んだ私は、
その距離の中で、
思い出し、祈り、名前を呼びます。
それは、
静かだけれど、
私にとっては確かな供養です。
まとめ|距離を選んだ人の、静かな肯定
供養の形は、
人の数だけあります。
そばに置くことで救われる人。
距離を保つことで、息ができる人。
どちらも、
弱さではありません。
もしあなたが、
「どうしても家に置けない」と感じているなら。
それは、逃げではなく、
あなたなりにちゃんと考えている証拠だと思います。
選ばなかったことを、
後ろめたく思わなくていい。
それもまた、
ちゃんとした別れ方なのだから。
・手元供養を選んだ人の話
ホーム » 手元供養を選ばなかった人の話
この記事が「いいな」と思ったら、noteのフォローやYouTubeのチェックもお願いします!がぜんやる気になります!
正解を探すより、
「この子の場合はどうだろう?」と立ち止まる時間を。
※唯一の正解はありません。その子に合うかどうかを、一緒に考えませんか。
\ 答えのない、子育ての迷いの中にいるあなたへ /
ブログでは「教育のヒント」を書いていますが、
実は私自身、毎日が迷いと後悔の連続です。
教科書通りの正解に傷ついたとき、
「この子の場合はどうだろう?」と立ち止まって、
静かに自分と向き合える場所をnoteに作りました。
このブログはPRを含みます
いっちー
元教諭(15年+)&プロカメラマン。
わが子の発達グレーやきょうだい児の葛藤に、涙でティッシュの山を築きながら向き合っている現役の母です。
教育の現場を知っているからこそ、外側から「正解」を押しつけられることの息苦しさや、もどかしさを感じてきました。
キラキラした正解の中で、無理をして生きるのはしんどいですよね。
「こうすべき」の前に、「この子の場合はどうだろう?」と、一緒に立ち止まれる場所でありたいと思っています。
子どもの絵に宿るサインや、言葉にならない心の機微をそっと眺めて。
今日をなんとかやり過ごすための「余白」を、一緒に見つけにいきませんか。


