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金曜日の夜。玄関に置かれたランドセルは、一週間分の「外の世界」を詰め込んでパンパンに膨らんでいる。それを開ける時の、あの重たい気持ち。中からは、親が確認しなければ月曜日の朝まで気づかなかったであろう「忘れ物」の気配が漂い、連絡袋を無視して、ランドセルの底で地層になったクシャクシャのプリントが出てくる。
そして、今回の持ち帰り品の中で最も異彩を放っていたのが、「マイプラン計画表」の〇印だ。宿題をやっていないのに、そこには誇らしげに〇が並んでいる。
「やってないのに、なんで?」
そう問いかけると、息子はきょとんとした顔でこう答えた。
「やる予定だから、間違ってないよ」
「書いていないこと」は存在しない世界
嘘をついているわけでも、ごまかそうとしているわけでもない。ただ、彼の世界では「やる予定」と「やった」の境界線が、私たちが思うほど明確ではないのだ。私はプリントを隅々まで確認した。
「宿題を終えてから、〇をつけましょう」
そんな一文は、どこにも書いていなかった。
書いていないことは、彼にとって存在しない。だから彼は、自分なりのロジックに従って、正々堂々と〇を書いたのだ。おそらく先生は、口頭で説明したのだろう。「みんなと同じように、先生の話を、空気を、文脈を読んで動きなさい」と。けれど、彼は聞けない。悪気があるわけじゃない。物理的に、脳の仕組みとして、その「言葉の波」をキャッチすることが、今の彼にはエベレスト登頂くらい高いハードルなのだ。
「察して先生」という高い壁
今、息子の担任は「言葉が少なく、察して動くこと」を求めるタイプだ。息子のようなタイプにとって、これほど相性の悪い環境はない。先生は「説明したんだから、わかるはず」という期待の視線を向ける。でも、届かない。
Insight: 教壇から見た風景、親として見る現実
私が小さい頃、どこか絶対的な存在として尊敬し、すべてを委ねられると思っていた「先生像」。けれど、私自身が教諭として教育現場に立ち、それから親としてこの現実の中に放り込まれて、気づいてしまったのだ。学校も、先生も、万能ではない。
かつて小学生だった私が、先生からかけられた温かい言葉。それをずっと「私のためのもの」だと思って大切にしてきた。けれど、教壇に立つ側になって分かったのは、その言葉の多くは、必ずしも目の前の一人の子どものためだけに発せられるものではないということだ。それはクラス運営を円滑にするための装置だったり、他の誰かのために向けられた牽制だったりする。
先生という存在は、息子の特性という複雑なパズルを解いてくれる魔法使いなどではなく、組織を動かし、集団を維持することに心を砕く、ただの一人の人間に過ぎないのだ。
「先生に期待していない」
それは投げやりな諦めではない。教諭として、親として、教育現場のリアルを痛いほど知ってしまったからこその、現実との対峙だ。「この子」だけを見て、その特性に合わせた説明を尽くしてくれる場所なんて、今の学校というシステムの中には、初めから存在しないのかもしれない。
だから、先生の説明が息子を素通りしていくのも、息子がプリントの文字通りにしか動けないのも、ある意味では「当然」の結果なのだ。
学校という場所、この子の在り方
話を聞けないという事実は、明日も変わらない。先生との相性が、魔法のように好転することもないだろう。けれど、学校という集団を前提とした場所を一歩離れた今。学校が求める「正解」の枠には収まらなくても、彼の中には彼なりの筋が通っている。
その不器用なほどに真っ直ぐな在り方を、今はただ、一つの事実として受け止めていたい。
このブログでは、子育て中のちょっとした悩みや工夫、
子どもの行動の心理をわかりやすく紹介しています。
ときには心理診断コンテンツで気分転換も♪
育児を「ちょっと気ラクに、ちょっと楽しく」感じられるような記事を発信中です😊
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元教諭(15年+)&プロカメラマン。
わが子の発達グレーやきょうだい育児に悩み、試行錯誤する現役ママです。
教育現場を知っているからこそ「正解」を押しつけず、
親子の心がふっと軽くなる材料を届ける伴走者でありたいと思っています。
- 子どもの絵から読み解く心のサイン
- 不登校・発達グレーとの向き合い方
- じっとしていられない子もOK!な個性派撮影
「一人で抱え込まなくて大丈夫」。
今日をやり過ごすヒントを一緒に探しましょう。




